痛車天国2017 inお台場
ホンダが生んだ孤高のスポーツカー、S2000。
消息不明のジオン公国軍突撃機動軍所属のエース・パイロット。

車
ホンダ S2000 AP1/AP2型
1970年におけるS800の販売終了以降、ホンダのラインナップには長らくFRレイアウトの車が不在であった。
これは1967年のリリース当時としては珍しいFFレイアウトを採用することで望外の室内スペースを実現したホンダ N360の大ヒット以降、ホンダの創業者である本田宗一郎氏が掲げた「M・M思想(マン・マキシマム/メカ・ミニマム思想)」が
ホンダのクルマづくりにおける指針として定着し、スペース効率に優れたFFレイアウトの車の開発・販売にリソースを集中していた為であった。
その一方、生粋のFRスポーツであったS800の後継を求めるファンの声は日増しに高まっていたのである。
そんな中、ホンダの研究所内で非公式にとあるプロジェクトが動き出していた。
ホンダ社内の有志達によって、かつてのS800を彷彿とさせるFR駆動のオープンスポーツカー"S2000"の企画・開発が秘密裏に進められていたのである。
有志によるFRスポーツの企画はやがてホンダ社内の公式プロジェクトとして承認されることとなり、ホンダ創立50周年を彩る記念車として開発が進められることとなった。
しかし、1970年以降のホンダの市販車にはFRプラットフォームがそもそも存在しなかった。
そこで、ホンダはある大胆な決断を下すこととなる。
ホンダはFRプラットフォームをS2000の為だけに新規に開発し、そこに搭載するエンジン、トランスミッションですらもコストを度外視した自社開発の専用設計品としたのである。
通常、自動車産業においては、コスト削減のために車体プラットフォームやエンジン、トランスミッションを自社における複数の車種で共有することが半ば常識となっている。
又、搭載するトランスミッションはZFやアイシン精機などの専業サプライヤーから調達する場合も多く、自動車の根幹といえる車体プラットフォームやエンジンですらもコスト削減の為に資本関係がないライバルメーカーと共有する事も昨今では決して珍しい話ではない。
その為、大した販売台数の見込めないS2000という単一の車種の為だけに専用のエンジン・プラットフォーム・トランスミッションを開発したホンダの行為は極めて異例と言えたのだ。
しかし、一方でそれは創立50周年記念車にかけるホンダの情熱と決意の表れでもあった。
ホンダは自らの考える理想のスポーツカーを実現させる為に開発コストや製造コストに関する制約をほとんど無視することで、メカニズムに関する一切の妥協を排したのだ。
そんな非常識とも言えるS2000を構成するパーツの中でも別格と言える存在がその搭載エンジンである。
ホンダは1983年から1992年にかけてF1に参戦し、通算69勝とコンストラクターズタイトル6回、ドライバーズタイトル5回を獲得するなど、
当時“最強のエンジン・サプライヤー”の名を欲しいままにしていた。
そして、1992年のF1撤退によりF1エンジンの開発に従事していたエンジニア達の想いがくすぶる中、F1に携わったエンジニア達を多数招聘し、ホンダの創立50周年記念車であるS2000のエンジン開発に当たらせたのである。
その結果、F20C型と名付けられS2000専用エンジンは当時の常識を覆すものとなった。
F20Cは市販車用4気筒エンジンとしては異例のレブミット9000回転を達成、1リッター当たり125馬力、市販車用の2000ccNAエンジンとしては異例の250馬力を獲得したのである。
(2.2L版であるF22C型のレブミットは8000回転)
一方、常識外れのエンジンを搭載する車体もまた常識外れの代物であった。
通常、クローズドボディに比べて剛性面で劣らざるを得ないオープンカーを本格的なスポーツカーとして成立させることは一般的に不向きとされている。
しかし、ホンダはオープンカーであるS2000を“本籍はサーキット”と定め、ハードなサーキット走行に耐えうる屈強なマシンとしてリリースさせようとした。
それを実現させる為、ホンダは強固な大型フロアトンネルと前後のサイドメンバーを水平に繋ぐ
「ハイXボーンフレーム」と名付けられた新開発のフレームを開発、常識を覆す革新的なフレーム構造によってオープンカーでありながらもクローズドボディを凌ぐ高剛性ボディを見事実現してみせたのである。
更に、エンジンの動力を受け止めるトランスミッションはS2000専用に新開発された6MTのみとし、世界最高峰のショートストロークと珠玉のシフトフィールを両立していた。
こうして、S2000を構成するある種マニアックとも言える専用のメカニズムが完成し実車でのテスト走行が繰り返される中、ホンダはある決断を下す。
S2000の販売延期である。
本来、S2000はホンダ創立50周年に当たる1998年に販売が開始される予定であった。
しかし、ホンダはS2000をより完璧なスポーツカーとするべく、S2000の開発期間を敢えて半年延長したのである。
こうして、更なる熟成期間を経て1999年4月にS2000は遂にリリースされる運びとなった。
そして、S2000は販売されるや否や高回転型エンジンと高剛性ボディ、そして驚異的なコーナリング性能によって世界中のエンスージアストを驚嘆させることとなる。
S2000はコンパクトな4気筒エンジンを前輪車軸よりも後ろに配置しており、まるで純粋なレーシングカーのようにエンジンなどの重量物を車体の中心に寄せることで、市販車としては異例な低ヨー慣性モーメントを実現していたのだ。
独創的なメカニズムがもたらす軽量・高剛性・コンパクト・低重心な車体、50:50の前後重量配分などによりS2000は究極のコーナリングマシンとしての稀有な資質を獲得していた。
その結果、S2000はスポーツカーにとっての重要な基本性能である走る・曲がる・止まるを極めて高い次元で実現させることとなった。
一方、そんな市販車としては異例に硬派な成り立ち故にS2000にはある種の悩みがあった。
購買層が限られる2シーターオープンカーである事に加えてハードコアなキャラクターであるが故に、セールス面での苦戦が予想されたのである。
又、S2000がパワー競争では不利な小排気量NAエンジンを搭載していたこともあり、大排気量NAエンジンやターボエンジンで武装するライバル勢に比べて商品力での劣勢が予想された。
更には、レーシングカーのように純粋に運動性能を追求した車体と車輛セッティングであった為、ドライバーにはそれ相応の高い運転スキルが要求される操縦特性がシビアな車でもあったのだ。
しかし、多くの懸念材料にも関わらず、販売面での心配はある意味杞憂に終わった。
少なくはない世界中のエンスージアストがS2000の持つ唯一無二のキャラクターに共感し、S2000を買い求めたのである。
ヒット作とは言い難いものの、S2000のマニアックな性質を鑑みればその売れ行きは比較的順調と言えた。
そして、そんなファンの期待に応えるかのようにS2000の販売開始後もホンダは改良の手を緩めることはしなかった。
サスペンションのリファインやエンジン排気量アップ(ヨーロッパでは2L版を継続販売)、エクステリア変更等の度重なる改良により、S2000をより完成度の高いスポーツカーへと進化させていったのである。
こうして、1999年4月に販売が開始されたホンダの創立50周年記念車であるS2000は2009年9月に販売が終了されるまでの約10年間で日本国内で約2万台、世界累計で約11万台を販売することとなった。
記録上で見れば、S2000よりも販売台数が多く、より多くの支持を集めたスポーツカーは数多存在する。
又、動力性能だけに限ってみても、出力や最高速度、サーキットのラップタイムで勝る量産車は決して珍しくはない。
しかし、100年以上続く自動車史を振り返ってみても、S2000ほど運転する喜びを純粋に追及し、
ドライバーの運転技量を鏡のように映し出す車は歴史上数える程しかない。
そのため、ドライバーの技量を試す唯一無二にして孤高の“リアルスポーツカー”であるS2000は今なお多くのエンスージアストの心を掴んで離さないのである。

アニメ
機動戦士ガンダム MSV-R ジョニー・ライデンの帰還(Wikipedia参照)
一年戦争(宇宙世紀0079年)で散逸した情報や資料を、収集編纂し保存する組織である地球連邦政府のFederation Survey Service(略称FSS)に所属しているMSパイロット、レッド・ウェイラインは、宇宙世紀0090年、シミュレーションによるMS戦闘データ調査中に不審な出来事に遭遇し、チームのリミア・グリンウッドと共に「ジョニー・ライデン」のことを調べ始める。
しかしレッド・ウェイラインを「ジョニー・ライデン」本人の可能性があると判断した、キマイラ隊残党のユーマ・ライトニング、現在は連邦議会議長ゴップの養女となっているキマイラ隊残党であり強化人間のイングリッド0、連邦軍特殊部隊「ナイト・イェーガー」といった様々な勢力の思惑が絡み合う中、次期首相と名高い首相補佐官オクスナー・クリフの猟犬と呼ばれる「民間軍事会社テミス」の社長ジャコビアス・ノードが、FSSを訪れてレッド・ウェインラインとリミア・グリンウッドに自分もキマイラ隊の残党であること、キマイラ隊の真実を証言し、解体された今は既に探るようなものは何も無いと告げて手を引くことを求める。
しかし、オクスナー・クリフとジャコビアス・ノードは宇宙を彷徨うキマイラ隊の最重要機密と言えるMS製造プラント船「ミナレット」の航路を唯一解析できる旧ジオン公国の機動巡洋艦「サングレ・アスル」をジャブロー基地跡に秘匿していた。
地球連邦政府の「首相補佐官」、「連邦議会議長」、勃興しつつある「新生ネオ・ジオン」、そして「キマイラ隊」の残党達は、「サングレ・アスル」、「ミナレット」、更には「ミナレット」から起動される「ザビ家の復讐装置」、そしてその鍵となる「ジョニー・ライデン」を求め更なる政争、紛争をひき起こすことになる。連邦議会のほうも「ミナレット」の破棄を望むゴップ議長と首相補佐官オクスナー・クリフとが対立。互いの手ごまとして、ナイト・イェーガーから引き抜いた議長直属部隊とテミスとの間で「サングレ・アスル」を巡っての戦闘が始まる。レッドらもこの戦闘に乗じるが、「サングレ・アスル」は宇宙へと打ち上げられる。当初の目的地はサイド3であったが、アイシュワリヤのデータ改竄によって「サングレ・アスル」はコンペイトウへと向かう。
コンペイトウ近傍宙域で、「サングレ・アズル」の捜索を行う、ジオン残党とテミスを取り込んだFSS、追撃する議長直属部隊、シャア・アズナブル率いる新生ネオ・ジオン、キマイラ隊残党、コンペイトウ駐留艦隊による混戦となる。かろうじてサングレ・アスルを確保したFSSはキマイラ隊残党に導かれて、キマイラ隊残党の本拠地である茨の園へと着いた。

キャラクター
ジョニー・ライデン(バンダイホビーサイト参照)
ジオン公国軍突撃機動軍所属のエース・パイロット。階級は少佐。
一撃離脱戦法を得意とすることから“真紅の稲妻”という異名が付けられた。
サイド3への第一次移民の三世で、ジオンでは珍しいとされるアメリカ系イギリス人。
一年戦争では、「ルウム戦役」での戦艦3隻撃沈を皮切りに功績を重ね、曹長から少佐へと昇進。
戦争末期には突撃機動軍付の本国要請にて、ザンジバル級戦艦「キマイラ」を旗艦とするエース部隊に転属。
紅と黒をパーソナルカラーとしたゲルググを乗機とし、ア・バオア・クーの攻防戦へ参加するが、その後の消息は不明である。

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